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Oxlad Fund

創立者オクスラド先生

私たちの学院は今年創立134周年を迎えました。厳しい環境の中で歴史と伝統を受け継ぎつつ、未来に輝くプール学院として使命を果たしていくために新しく生きることが求められています。神の栄光を顕す学院として発展するためにも財政基盤の強化は大事な働きです。これからの学院が輝き続けるために、16年後の2029年の創立150周年を目指して総額10億円の「オクスラド基金」を創設し、募金を開始することになりました。去る5月25日(土)には卒業生の歌手、映画俳優、坂本スミ子さんを委員長とする、「オクスラド基金」発足の集いが、オクスラド先生のファーストネームのメアリーを名前にしたメアリーズホールで行われました。坂本スミ子さんの母校に対する熱い思いと、母校を通して植えられた確かな信仰が会場を包み込む素晴らしい発足の集いでした。これを出発点としてプール学院に関わる全ての人々に理解と協力をいただく、長く遠い運動を続けてまいります。当日、募金室長が語った「募金をしたくなるような良い学校にしたい」という言葉を現実のものとするために一層の努力をいたします。

プール学院の名前となっているプール主教は実にこのオクスラド先生の始めた小さな学校を名実ともに本格的な学校とするために校舎建築の資金を作ることに尽力された方です。プール主教の熱意があって英国でも募金が行われ、やがて新たな校舎と共にプール学院が始まるのです。プール学院がプール学院である限り、この愛と奉仕の一つの形としての寄付は大切な伝統なのです。この伝統を「オクスラド基金」として創設するにあたり、創立者オクスラド先生のことを少しく述べたいと思います。

 

メアリー・ジェーン・オクスラドは1840年3月11日、南ウェールズ、ニースに父ロバート・オクスラドと母メアリー・アーノルドの長女として生まれました。彼女の記録として確かなものは英国CMS本部に残されている宣教師の登録記録くらいしかなく、実はオクスラド先生についてはわからないことが多いのです。オクスラド先生は教師としての教育を受けた後、ガヴァネスと呼ばれる貴族の家庭教師として働き、1864年、24歳の時に東洋女子教育協会(The Female Education Society)から派遣されて香港で働き始めます。東洋女子教育協会はアメリカ人宣教師D・エイビールが自身の中国伝道の経験から、中国人女性への宣教の必要を英国で訴えたことから1834年に設立された女性宣教師の組織で、中国を中心に学校を設立し、運営管理することを働きとしていました。やがて活動の領域を広げ、インド、パレスチナ、シリア、レバノン、日本にもその活動は及んだのです。オクスラドは1877年(明治10年)37歳の時に、大阪で働いていたCMS宣教師C・F・ワレンの要請に基づいて彼の子供たちの家庭教師として来日しました。C・F・ワレンは実は自分の子供の教育だけでなく、日本におけるキリスト教伝道のための学校の必要を考えていたのでしょう。オクスラドは来日すると2ヵ月後には4人の少女と1人の小さな男子の5人が学ぶ「オクスラドの学校」を始めました。しかし、オクスラドはFESに手紙を書き送り、みずからの日本語学習が思い通りにならないこと、英学校も日本人の学校も継続する自信がなく、キリスト教教育の望みもないことなどを書き送っています。来日して日の浅い頃オクスラドは学校を始めたもののまったく自信も確信も持てずに悩んでいたのです。さらにオクスラドは健康を害し、精神的にもかなりつらい状態にいたようです。FESは結局オクスラドに帰国命令を出しました。しかし、なぜか彼女は帰国することなく、1880年の手紙で生徒の数が14人になったということと、大阪にとどまり学校のために努力したいと報告するのです。政府の行う学校に比べ施設も設備も整わず、キリスト教に対する関心もない人々の中で、可能性を見つけられず、加えて自分の健康まで害するという挫折の中でオクスラドを支え、駆りたてたものは何か、困難な状況を耐えさせたものは何か、その答えは聖書の中あります。Ⅱコリント12章9節でパウロは自分に語りかける神様の言葉をこう記しています。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」強靭な信念や強さによって学校を始めたのではなく、人間的には肉体的にも精神的にも弱さを持っていたにもかかわらず、神の栄光のために生きるという信仰がオクスラドの「弱さ」を「強さ」に変えたのです。私たちは今オクスラド先生を思い起こし、力の弱い私たちに力を与えてくださる神さまの恵みの強さを信じて「オクスラド基金」を育てていきたいと思います。みなさまの好意と協力をひたすら願い求めます。